ここからは各時代での三瓶英俊がどんな人だったのかを暴いていく!!
▪1965年1月8日に東京都三鷹市で生まれる。
▪1歳の時に埼玉県川越市に引っ越しをする。
▪かなりヤンチャ坊主の長男であった。
▪少年野球に入り、川越市の大会で優勝をする。
▪人数確保のため、バレーボール部に入部する。
▪川越市の大会で準優勝に導く。
▪埼玉県大会でベスト8。
▪関東大会予選に出場する。
▪全寮制の進学校に入学する。
▪大学受験に向け毎日勉強だらけの日々を過ごす。
▪大学受験に失敗し、一浪することになる。
▪予備校に通うための資金集めで寿司屋でのバイトを始める。
私が、オートバイと出会ったのは18歳の時です。
私のバイト先に勤めておられた板前さんが、大のオートバイ好きだったのです。
会話のなかで、オートバイの話になり板前さんに話を合わせてしまったために、
板前に私がオートバイ好きと勘違いさせてしまったことが始まりです。
私は、板前さんの誘いを断れなかったため、オートバイの後ろに乗ることになりました。
板前さんのオートバイテクニックが素晴らしいことを今でも覚えています。
私が思っていた以上に風を切る感覚が心地よく、
オートバイにのめり込んでいったのです。
これがオートバイのレース人生の始まりでした。
6年間、私は、国内海外での大会に出場する機会を頂きました。
オーストラリア遠征、日本各地の大会に出場し、まあまあの結果を残すことができました。
なぜか女性にかなりモテましたね!笑笑
その頃は、オートバイ一筋で勝つことに無我夢中で、女性には全く興味がありませんでした。
今から思えば、少しもったいなかったように思います。苦笑
順風満帆なレーサー人生は、ある日、突然悪夢となりました。
スポンサー企業がつく大切は大会前、
私は練習中にライバルより先に出たいと言うあまりに、
インナーを責めすぎ、ハイサイドで転倒し、九死に一生を得るケガをしたのです。
私は、オートバイ事故で首の骨をおり、命を落とす同期や後輩を見てきました。
オートバイは、死と隣り合わせなんだと思いました。私の体験として肉体というものは頭と気持ちでは走りたいと思っていても、
筋肉レベルでスピードへの恐怖を感じるということを知りました。
私の体は、恐れに囚われ、スピードを出すことができなくなりました。
半年間もの間、あんなにとても大切にしていたオートバイを見ることも、触れることもしませんでした。
これが、世に言う『スランプ』です。
私は半年間オートバイに乗りたいと思わなければレーサー人生を止めようと決めていました。
また乗りたいと思ったので、初心に戻り再スタートしました。
私は、オートバイ運転技術だけでなく、オートバイのメンテナンスやオートバイの機能、
性能などの各メーカーのデータについて、徹底的に研究をしました。
そのおかげで、自信を取り戻せたのです。そこに結果もついてきました。
ある日、今度はあれだけ怖かった転倒、死ぬことへの恐怖が自分に全くない1mmもない事に気付いたのです。
このままでは、本当に、「死ぬな」と感じました。
私は、それにより24歳で、レーサー人生に終止符を打ったのです。
周りから、後悔はないのかと聞かれますが、「全くない」と言いきれます。笑笑
幼い頃から医者になると決めて進学高に進んだ私がひょんなことからオートバイと出会い、レーサー人生が始まり、そして終止符を打ちました。
25歳で立体駐車場メーカーに就職しました。
この会社で、建築に関する技術を学ぶこととなりました。
この会社は事業が縮小してきているにも関わらず、社長が手を講じなかったので、
もうこの会社はダメだと思い私は28歳で退職することにしました。私が退職した翌月に、会社が倒産しました。
その後、縁あって建築会社に就職することとなります。
この会社では、建築に関する詳しい技術を学びました。
そして、30歳の時に電気工事会社に就職することとなります。
その会社の社長は、私が理想とする「共に学びともに栄える」と考える方ではなかったので独立を考えることにしたのです。
建設工事会社、電気工事会社での習得した知識や技術を活かして、32歳で電気工事会社を設立しました。
独立当初は様々な困難がありましたが、支援して頂いた会社や銀行には感謝しております。